望んだものと現実と-『SS先史遺産研究所アーネンエルベ』監訳者・森貴史さんインタビュー
2020年2月新刊『SS先史遺産研究所アーネンエルベ』、刊行以来、たくさんの方々にお読みいただいているようでほんとうに嬉しいです。ありがとうございます!
今回は監訳者の森貴史さんにインタビューを行い、本書の読みどころ、日本のナチカル、ナチスと秘教思想・疑似科学・生活改革運動、さらには文化史という学問、歴史認識などなど、幅広いテーマについて興味ぶかいお話を伺いました。ぜひご覧ください。
▽本書の詳細についてはこちらをご覧ください。
「学術と妄想が融合するとき何が起こるか?2月6日新刊『SS先史遺産研究所アーネンエルベ』ご紹介!」
目次
本書『SS先史遺産研究所アーネンエルベ』の読みどころ!
- 今回は800ページとたいへんな量のご翻訳、ほんとうにおつかれさまでした! 最初にこの本の翻訳の話が来たときどう思われましたか?
ぼくは仕事をするのは嫌いじゃないし、出版社を選んだりはしないんですけど、ただ、興味深い本でちゃんとした本だな、と。出版社も「De Gruyter Oldenbourg」といって、学術書出版でドイツのすごい有名なところなんですね。それだけでもきちんとした内容だということはわかるので、躊躇することはなかったです。
- 本のテーマ的にはどんな印象でしたでしょうか?
ドイツのことをやるうえでナチスのことは避けて通ることはできません。
実際、ぼくの書いた『踊る裸体生活 ドイツ健康身体論とナチスの文化史』(勉誠出版)や『裸のヘッセ ドイツ生活改革運動と芸術家たち』(法政大学出版局)などの20世紀ドイツの生活文化史をテーマとした本も、ナチスなしではぜんぜん考えられない。
月面の”裏側(ダークサイド)”に潜んでいたナチス残党が地球侵攻を企てるという内容のSF映画『アイアン・スカイ』(2012年公開)の考察をおこなったことも(「月面に蟠踞する第四帝国のリアリティ-反ナチス映画としての『アイアン・スカイ』」〈溝井裕一ほか編『想起する帝国 ナチス・ドイツ「記憶」の文化史』勉誠出版、2017年所収〉)。
なので、「ナチスがテーマだから」ということで退けるということはありませんでした。
- ナチスドイツ史の研究書というのはそれこそ無数にあると思うのですが、この本の新規な点や読みどころは?
監訳者解説でも書きましたが、ヒムラーはドイツ国内外に強制収容所をつくり、その責任者としてさまざまな人体実験をおこなわせていました。その実験を実際に遂行していたのが、かれの指揮下にあるアーネンエルベという組織だったということはあまり知られていません。
あと、ちょっと調べてみても、日本国内で出版されている本だと、横山茂雄さんの『聖別された肉体―オカルト人種論とナチズム』(書肆風の薔薇)や浜本隆志さんの『ナチスと隕石仏像 SSチベット探検隊とアーリア神話』(集英社)などごく限られた書籍を除けば、そもそもアーネンエルベに言及しているものが非常に少ない。
ナチスの科学技術関連については、たとえば兵器関連についてはすごいいろいろな本が出ています。また、陰謀論や都市伝説的な観点から扱うものも多い。
それらとはまったく違うアプローチで、膨大な史料の積み重ねから、ヒムラーをはじめナチス高官の知られざる事実や、謎の組織アーネンエルベの実態を明らかにする。そのような点で、極めて興味深い一冊ではないでしょうか。
原著自体は初版刊行が1974年とけっこう古いものです。でも、逆にいえば、その本がいまだドイツで版を重ねているということは、そこからあまりアーネンエルベ研究は進んでいないということ。もしかすると、ドイツ本国ではもうちょっと進んでいるのかもしれませんが。しかし、それが日本で紹介されることはあまりない。その意味でも貴重な書籍です。
翻訳の苦労話をすると、そのようなわけであまり先例がない本だったので、訳語の検討はとてもたいへんでした。あと、章によって担当者がちがっていたのでそれをまとめるのも工夫が必要でした。が、さまざまな資料にあたって訳語一覧表を作ってくださった北原博さんをはじめ、溝井裕一さん、横道誠さん、舩津景子さん、福永耕人さんと、心強い共訳者の面々のお力添えで最大限よいかたちにまとめられたのではないかと思います。
伝統的歴史学では見過ごされてきた「文化史」
- こうやって振り返ってみると、けっこうニッチな分野の本でしたよね。
そうですね。本流の歴史学の人たちはこういう本はあまり書かないみたいです。
- それはやっぱり、テーマ的(疑似科学的な研究をおこなった組織)に忌避感があるんでしょうか?
あとはやっぱり、世界史の研究というと、いまでも政治史がメインですよね。
ちょっと前に、ドイツ文学者の故・池内紀さんが出されたナチス関連の新書について、賛否両論が起こって新聞記事にもなりました。ああいうことが起こるのも、やっぱり、いわゆる世界史の専門家たちがなにを「研究」と見るか、ということにかかわっているのではないでしょうか。
池内さんの本は、エッセイというか、歴史のなかの行間や妙味を読み出して、それを文章にしている、みたいなところがありますよね。でも、一般の歴史家はもっと違う視点で歴史というものを見ている、ということです。
-なるほど、そういう捉え方の違い、というようなところがあるんですね。
正統派の歴史学研究から見ると、そういうのは少なくとも「いかがわしい研究」と見られる。
ぼくの裸体文化の本だって、日本でまっとうな学問と捉えられるかというと難しいと思いますよ。
裸体文化はこれまで日本のドイツ文化史ではあまり言及されてこなかったものなのだけど、現地に行くと、ちゃんとそれは普通に存在していて、ドイツ人の生活の一部となっている。ドイツにいくと、ふつうにすっぽんぽんで海辺や公園にいる人いっぱいいるんですよね。しかし、それが学問的主題として正面から扱われることはほぼない。
日本の風俗史の本も、さいきんはちょっと注目を集めはじめている気配はありますけれど、やっぱり同じで、「真面目」だといわれている学者の人たちは取り扱わないと思うんですよね。
-先日、日本近現代史の研究者のお話で、戦後しばらくのあいだ、日本の歴史研究では「近現代は歴史学にあらず」(=客観的に検証するにはあまりにも近い)という風潮があったと聞きました。
そうなんだと思うんですよ。
-そもそも研究の対象とされていない、ということでしょうか。
こういうことです。やっぱり学者たちのあいだでも、流行りだとか正統とされるテーマが時代時代で移っていく。不変ではないわけです。
このことが認識されるにあたって重要だったのは、フランス現代歴史学の「アナール学派」の登場です。むかしは政治史しかなかったわけだけれど、アナール学派の人たちはそうでなくて、人類のこれまでの歩みには「文化史」というものが存在してきて、それは研究に値するんだ、ということを非常に硬い文章ですが書いています。日本ではとくに藤原書店さんがアナール学派の紹介に力を入れられていて、アラン・コルバンの分厚い本などを多数出されています。
-アナール学派ってそういうことをいってたんですね、知らなかった。
アナールってフランス語で「年報」(Annale)の意味で、かれらがいまも発行をつづけている学術誌の名前にちなんでそう呼ばれています。アナール学派の人たちはざっくりいうと、大文字の歴史ではなく、名も知らぬ一般庶民たちの細やかな文化史とや生活史のなかから生活文化や書物に刻まれないもうひとつの歴史を読み取るっていう研究をおこなっています。
アーネンエルベの話に戻ると、既存の政治史主流の歴史学から見ると、やっぱりこのアーネンエルベ関係というのは研究対象から削ぎ落とされてしまうわけです。
そこに日本で最初に立派に奥深く入っていかれたのが、横山茂雄さんの『聖別された肉体』(1990年刊行)。だからあの本はいまでも価値があるんですよ。英文学者でいらっしゃるのに英語に加えてドイツ語の文献も読んで書き上げていらっしゃる。本当に労作です。
しかし、それも、やはり横山先生は大学の教授であるために、世の中に受け入れられる、というのはあるでしょう。
-所属が研究機関か在野であるかで、同じ内容の本を出してもまったく世間の反応が違うという。
だから、今回のアーネンエルベ本も、ぼくたちのような大学の教員がなぜこの版元で!? というような反応があったと聞いていますが、けっこうそれが普通なんじゃないかな。この話、けっこう面白いと思うんです。
-面白いですね、正統性の問題です。
そうです。やっぱり学問としての流行りすたりもあるし。世界史や日本史の教科書の内容だってしょっちゅう記述が変わっているわけだから。それと同じで、「歴史で何があったのか」も実は時代や場所、立場などなどによって結構変わるということです。
こうした背景を考えると、アーネンエルベ本なんて、中身をパッと見ても、あんなにいろいろな資料が存在しているのに、なぜかいまのいままで「謎の組織」として霧に包まれていた。つまり、そもそもいままで、ちゃんと考察の対象として取り上げられてこなかった、ということですよね。
-なるほどですね。引用されている資料は膨大ですものね。書簡から親衛隊文書から。
それに加えて、ニュルンベルクをはじめとする裁判資料だって山ほど残っているわけなんだけれど。
-じゃあ、これからまた光が当たる部分がいっぱいあるかもしれませんね。
そのつもりでこの本の翻訳をがんばったつもりです。
戦後日本のナチカルチャー
- ナチカル(=ナチス要素を取り入れたサブカルチャー)についても教えてください。
日本だと学術書もいっぱい出てると思うんですけど、ナチスの存在が広まっているのって、割と漫画であるとか、ミリオタとか、あと最近だとコスプレとかの力も大きいと思うんです。こういった現象についてはどう思われますか?
日本には独特のサブカル文化があるのではないでしょうか。あくまで観念の世界を築き上げて、あたかもあるかのように、ま、半分あるかもなんだけど、そういう世界観のなかで満足するっていう楽しみ方が多いのでは。
ナチスの場合もそれと同じで、実際のかれらの行為ではなく、軍隊としての組織や制服というのにもっぱら注目が集まっている。ナチスと日本の独特なサブカル風土というのは、非常に相性がよい、ということがいえると思います。
あと日本人は「判官びいき」の傾向もあるので、負けた方のドイツ軍に対する入れ込み、みたいのも、ほかの国とは違うように思います。
本国のドイツに目を向けると、ナチスの格好をすること自体が憲法で禁じられているわけです。しかし、日本だといくらでもコスプレする場所がありますよね。
ちょっと前ですけど、欅坂46だったかな。ナチスっぽい軍服っぽい格好を衣装で着ていて、それがウィーゼンタール機関というユダヤ人の監視機関の目にとまって物議を醸したこともありました。こうしたことが気楽におこなわれてしまうところも、そういう風土的なものに起因するのではないでしょうか。
軍服はカウンターカルチャーとして存在する部分も大きいとも思うんですけれど。いずれにしても、観念の世界のみで捉えがちな部分はあると思います。が、それを観念の世界ではなく、実際の戦争犯罪の視点から捉えている人から見ると、許しがたい行為に映るというわけですね。
-日本の戦後の深い部分ともかかわるような感じですね。
もちろんそうじゃないですか。
それと、日本でつくられた漫画や特撮のなかでも、ナチスが「悪」として出てくるものがすごい多いんです。仮面ライダーの悪の集団ショッカーも、「もとはナチスの残党だった」という設定だという話もある。実際、ショッカーのマークはナチスのシンボルにもなっていた「鷲」ですね。もっとも、鷲や鷹はナチスに限らず、ナポレオンやドイツ帝国などでも強さ、気高さをあらわす動物として伝統的に好まれてきたのですけれど。
そのようなかたちで、ナチスの記憶は戦後日本にもいろいろなバージョンで知らず知らずのうちに反復・浸透しています。
- 原著者のカーター氏はあとがきでナチスにかかわる陰謀論や都市伝説の類(例えば「シオンの議定書」など)はすべて一蹴しています。しかし、日本では、陰謀論が一定の人気を集めています。
それは日本だけではないと思いますよ。世界中で大ヒットした小説・映画『ダ・ヴィンチ・コード』だって似たようなもんじゃないですか。あれだって結局、イエスの子どもが生き延びているっていう物語を追っていくわけですよね。立派なオカルト陰謀論かと思います。
-でも『ダ・ヴィンチ・コード』は叩かれないで陰謀論は叩かれるっていうのは、やっぱり後者は明確な根拠もないのに歴史を騙ってるという点がまずいんでしょうか?
イエス妻帯者説を否定するキリスト教徒の立場からいうと『ダ・ヴィンチ・コード』だってけっこう問題があって叩いている人もいっぱいいると思いますよ。陰謀論にしたって、やっぱり想像力上の話だし。なんでもそういうふうに考える人って多いじゃないですか。
考えたがる人たちはどうしたってそういうところにロマンや夢を追い求める。たとえば、ノストラダムスの予言です。かれのいってたことが現実の出来事に的中していた!と信じる人は多く、日本でも「終末の予言」として20世紀後半に盛んにもてはやされました。「あれはたまたま当たっていただけだ」と、ぼくなんかは思うわけです。でも、信じたがる人たちは、「なぜ当たったのか」「かれの予言のこれこれこういう部分がこういう出来事を示している」と想像を無限にはたらかせていく。すると、もう議論は進まない。
それを信じちゃっている場合は、もうそこから先の議論は両方で成り立たない。そういうふうに信じたがる人たちは正誤ではなく、そういう世界観を「愛しちゃう」わけです。
-まさに「望んだものと現実と」(本書第11章タイトル)を思い起こさせますね。まず「こうあってほしい」というのがありきで、それに合致するものを探し求めるということですね。
そうです。これは実はけっこうアイドルを追っかける人たちとも同じなんですよね。
-えっ、そうなんですか?
なにかの人間関係に物語を求めたりするやつです。たとえば、メンバーのだれかが「引退する」とか「卒業する」といい出すと、それが何の原因によるものなのかに想像をめぐらせて、ほかのメンバーとの不仲説を信じてふりまく人がいる。真相は表には出てこないので永遠にわからない。その前提があるのに、ライブとかのちょっとした発言とかを取り上げて、そういうことを延々ああでもない、こうでもない、と言い合うわけですよね。それは陰謀論好きの人とまったく同じ構造だと思うんですよね。
-わからないものをわからないままにしておくってのができない、という人間の性なんですかね?
そういうこともあると思うし、やっぱり人間は物語を創り出してそれを信じたい、そういう生き物なんだと思うんです。
- 深い・・・!
うん(笑)。でも、だからこそ二次創作だってできるんじゃないですか? 好きな作品やキャラがあって、それをもっと自分のなかで思ってるようにしたい、っていう思いから、みんな二次創作で物語をつくったり同人誌にまとめたりするわけです。
ジャニーズアイドルでもいいんですけど、だれがどれが推しっていうだけでいろんな物語をつくる。陰謀論もそういうレベルのことと同じだとぼくは思うんです。
〈歴史〉をどう捉えるか?
もうひとつ例を挙げれば、織田信長の「本能寺の変」ってありますけれど、あれについても陰謀論ってものすごくいっぱいあって、いろいろな人がいろいろな説を立ててるんですよね。
- 信長生存説とかですね。
本能寺の変では明智光秀が主君に叛乱を起こして信長を倒すわけですが、いままでいろんな話が出て、たとえば豊臣秀吉が実は影で操っていたとかね、そういうのとも同じだと思うんです。
もともと事実自体はあるとしても、それをどう解釈するかで結論は違ってくる。
たとえ共有できる資料があるとしても、みんな自分の思ったように解釈するわけですよ。
それはさらにいえば、歴史学研究の世界でも同じで、ちゃんとした資料に基づいて客観的に、という建前はあるんですけれど、それさえも資料をどう解釈するかで、必然的に主張の違いが生まれてくるんです。
それは法律とかもみんなそうだと思うんですよね。弁護士も裁判官も、法律をどう解釈するかで裁判の結果が変わる。信じたいように信じて、同じ言葉や条文でも自分の思うように解釈していくわけですよ。それと同じように歴史的事実も同じ資料を見ていてもどう解釈するかで違う結論になるということがある。
- そうすると、いったい何を信じればいいんだろう、となりません? 分裂しませんか?
それはもちろんそうだと思いますよ。それに権威をつけているのがアカデミズムだと大学の先生である、と、そういうことになるんじゃないんですか。
- そういうシステムによって信憑性が保たれているということですね。
正しいですね。アカデミズムというシステムによって保証される、という説明は間違ってないと思います。
天動説から地動説へのコペルニクス的転回とかもそうでしょ? いまはみんな地動説を信じていますけど、あの時代は天動説は覆らなかったわけですよね。なぜなら学術的権威がそれを許さなかったから。それと同じなんじゃないんですか?
-文化史的な立場からそうした対立にひとこと物申すなら?
イデオロギーや党派性、アカデミズムのなかでいえば学閥、などなど。こうした尺度で解釈するとそうした対立に陥って対話が成り立たなくなりがちです。ぼくはそういうのには与さないで柔軟に考えているつもりですが、党派性に縛られないということは、研究領域にある見方にも縛られない。
-だから新たな観点を生み出すことができる可能性がある、と。
それもありますし、まぁ、政治史とかはいままでたくさんあったので、そういうのにないところがあるのがシンプルに文化史の面白いところなんじゃないかなと思います。
- ありがとうございます。ナチスからはじまって、物語をつくって信じたがる人間という生き物、さらには歴史認識まで話が広がりましたが、アーリア国家建設という目的のために、過去の歴史・文化から都合のよい部分だけつまみとって歴史を再創造したことをふり返ると、まさに本質を突く示唆深いお話が伺えたと思います!
それではみなさん、サラダバー
の前に、すみません、もうひとつ。
今回、コロナの影響で延期になった出版記念イベントでどんなお話しいただく予定だったかについて、少しだけ教えてください。
ナチスとオカルト・疑似科学・生活改革運動
理性とオカルティズムの表裏一体性-視霊者スウェーデンボリとカントの交流から
「ナチスドイツとオカルト・疑似科学・秘教思想」というお題から、こんな内容を考えていました。
まずはぼくの専門でもある啓蒙主義を手がかりにして。啓蒙主義といえば近代哲学の祖イマヌエル・カント(1724〜1804)がまず思い浮かぶと思います。カントは自然学から学問の世界に分け入り、途中からドイツ観念論の代表的人物になっていく。
世界史の教科書にも載っている有名な歴史人物だと思いますが、そのカントが実は、当時一世を風靡していた神秘主義者のスウェーデンボリ(1688〜1772)にわざわざ会いにいってインタビューをおこなっているんです。
- へぇ〜、そうなんですか。
スウェーデンボリはもともとは科学者として名を成した人物ですが、あるとき、とつぜん霊界体験をし、以降、霊との交信をつうじて霊界・天界の研究に没頭するようになりました。カントはかれとの対話を『視霊者の夢』という本にまとめています。
要するになにがいいたいのかというと、啓蒙主義の時代でさえも、しかも『啓蒙とはなにか』という書物を著すまでに啓蒙について真剣に考えていたカントでさえ、スウェーデンボリへの興味を無視することができず、かれの視る夢がほんとうかどうか、真剣に判定したりしているんです。
そういうところから入っていって、理性の時代とオカルティズムがいかに表裏一体であるかということについてお話できればと思っていました。
ナチスの疑似科学の典型例-レーベンスボルン(生命の泉)と絶滅動物復活計画
あと、疑似科学についてですね。ナチスでいえばその代表例はレーベンスボルン(生命の泉)。純粋なアーリア人の増殖を試みた機関です。かれらの主張した「遺伝学」というのがいかにインチキか。それはまさに疑似科学にあたるものだとぼくは思ってます。たとえば、ドイツ人のカップルで、うまく金髪碧眼の人で、見映えもよくて、優秀な人たちを選んで子どもをつくったら、いい部分だけが受け継がれて、古の優れたゲルマン人が生まれる、と。そんなことできるわけないじゃないですか。メンデルの法則を完全に誤解しているわけです。
- なるほど、現代から見るとその間違いは火を見るよりも明らかなんですけれど、もしかして、いまの時代でも、同じように”幻”にとらわれてしまっていることってあるのかなあ…いずれにしても、何度強調してもよい教訓ですね。
あと、ナチスってけっこう絶滅動物を復活させようともしていたんですよね。これについては、アーネンエルベ本の共訳者である溝井裕一さんが、自身の編著『想起する帝国』で詳しく考察しています(「絶滅動物復元計画-想起された『アーリア的自然』」。それを読むとわかるんだけど、ヘック兄弟という動物研究家たちが、ベルリンとミュンヘンの動物園でそれぞれ園長として、あやしげな遺伝学的方法論を用いて「原牛」と呼ばれたオーロックスや野生馬ターパンといった絶滅動物の復活を試みています。で、そこにナチスがちゃんと手を貸しているんですね。
秘教思想と新たな人類史の”創造”
- ナチスと秘教思想・神秘主義のつながりについてはどうでしょうか? トンデモ本っぽい説も非常に多くて、真相が見えづらい分野です。
横山茂雄さんの『聖別された肉体』でも登場しますけど、トゥーレ協会などの19世紀後半〜20世紀初頭のドイツの秘密結社、そしてさらにブラヴァツキーの神智学協会とか、あそこらへんの思想というのは、やっぱり、ある意味、とても興味深いものがあります。
あの人たちの神秘主義というかオカルティズムがすごいのは、自分たちに至るまでの地球の人類史を勝手につくり出しているところ。「過去にはこういう人たちがいて、そういう人たちが超能力に近いものを持っていて、神に非常に近い存在だった」とか、ざっくりいうとそういうことを書いているんです
もともと神智学というのは遡れば古代ギリシャから存在してきたといわれていますが、近代ではブラヴァツキーたちがこれまでの神秘学体系を再構築した思想としてあらたに打ち出した。
また、これも『聖別された肉体』で触れられていますが、リーベンフェルス、本名アドルフ・ヨーゼフ・ランツ(1874〜1954)も神秘思想とナチスのつながりをたどるうえで重要な存在です。
リーベンフェルスはオーストリア出身の元修道士の評論家で、雑誌『オースタラ』を創刊し、劣等人種論にもとづく反ユダヤ主義を唱導した人物です。「新テンプル騎士団」(ONT)という奇妙な修道会も創設しましたが、かれのアーリア人やゲルマン民族の優越性の賞賛がのちのナチスにつながるひとつの流れとなったともいわれている。
過去の優れたゲルマン性を取り戻し、いまの時代においても優秀な人間を創り出さねばならない。そうしたリーベンフェルスの活動で芽吹いた思想が、ヒムラーなどに引き継がれていったのではないか、というのが横山先生の本で書かれていることです。
19世紀ドイツ生活改革運動とナチス-〈より善く生きる〉がなぜナチズムに結びつく?
あとはもうひとつのテーマ、「ナチスドイツとドイツ生活改革運動」ですね。これについては、『裸のヘッセ』や『踊る裸体生活』をぜひご覧いただければと思うのですが、菜食主義、裸体主義、自然療法など、現代社会でも一部では盛んに実践されているウェルネスを目指す営み、その源流のひとつとして、19世紀ドイツで広範におこなわれていた「生活改革運動」が大きな役割を果たしています。
で、それが奇妙なことにナチズムにもつながっている。
ナチスの人たちって菜食主義者が多いじゃないですか。ヒトラーもそうだったといわれているし、ヒムラーもそうだし、ヘスもそう。そういう同時代的な話から、それこそがナチスの〈健康な身体〉という思想につながっている、という話をしようと思っていました。菜食主義の話も、当時のヴィーガンが実際どういうものだったかということとか、やはり菜食主義を実践した宮沢賢治の話とか。そうした〈より善く生きる〉〈より健康に生きる〉〈よりシンプルに生きる〉といった一見無害な営みが、最終的にはナチスの方でどう取り込まれていったのか、ということなんですね。
今回のイベントは残念ながら延期となりましたが、また落ち着いたらぜひお話しできる機会を持てればと思います。
- ありがとうございます!
「個人的な関心」が「社会や国家に取り込まれるとき」になにが起こる? ということは、アーネンエルベはもちろん、現代社会にも通じる大きなテーマかと思います。詳しいお話を皆さんともシェアできる機会が持てることを楽しみにしております。ぜひ本書や関連書籍などもご覧いただき探索いただけますと幸いです。
では、今度こそ、みなさん、ごきげんよう!
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◆話し手:森貴史(もり・たかし)さん
1970年、大阪府生まれ。Dr. phil.(ベルリン・フンボルト大学)。現在、関西大学文学部(文化共生学専修)教授。主な著書に『裸のヘッセ ドイツ生活改革運動と芸術家たち』(法政大学出版局)、『踊る裸体生活 ドイツ健康身体論とナチスの文化史』(勉誠出版)などがある。2020年2月刊行『SS先史遺産研究所アーネンエルベ』監訳者。
◆聞き手:小澤祥子(編集)
(インタビュー日:2020年2月20日)
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書籍情報
『SS先史遺産研究所アーネンエルベ ナチスのアーリア帝国構想と狂気の学術』
ミヒャエル・H・カーター[著]
森貴史[監訳]
北原博、溝井裕一、横道誠、舩津景子、福永耕人[訳]
四六判上製/800ページ
2020年2月6日ヒカルランド刊
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